『元ヤクルト古田敦也監督兼選手』

今日は、元ヤクルトの古田敦也監督兼選手の講演会に行ってきました。
もはや選手時代の「のび太くん」ではなく、メガネもおしゃれでスーツもビシッと着こなしていました。

今年の夏はフジテレビ系北京五輪スペシャルコメンテーターを相武紗季さんと務めることも決まっており、この前の日曜日も大阪国際マラソンのコメンテーターとして頑張っていました。

講演会は対談形式で古田選手の生い立ちから引退するまでを1時間30分で振り返りました。

古田敦也 ~野球を愛するすべての人達のために~ [DVD]

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1.幼稚園時代
1965年生まれで兵庫県出身。父親から「野球でゼニを稼げ!」と言われて4歳から野球を始める。

2.小学校時代
3年生の時に地元川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。太っていたため、友達から捕手に推薦され、この時以来、一生涯捕手を続けることになった。

3.中学校、高校時代
普通の部活生活で、特に県立川西明峰高校は進学校のために練習時間は1時間しかなかった。

4.大学時代(立命館
一般入試で合格。一流捕手としての才能が一気に開花した。4年の時には、大学日本一になり、また、大学日本代表に選出された。ドラフトでは、某監督(日曜午前のテレビ番組で「喝」を連発する親分)に指名すると電話で言われたにも関わらず、大学にテレビクルーまで駆けつけていたのに指名がなく、特に両親は家に近所や親せきを大勢呼んでいたこともあり相当落ち込んだ。
某元監督(親分)はこの件を完全に忘れているらしく、古田選手は今だにちょっと恨んでいるとのことでした。

5.実業団時代(トヨタ
プロに入るつもりで就職活動は全くしておらず、なんとかトヨタに入れてもらった。捕手として益々頭角と表し、翌年にはソウル五輪で野茂投手とバッテリーを組み、決勝でキューバーに負けたものの、銀メダルを獲得した。

6.プロ野球選手時代(ヤクルト)
89年秋、ヤクルトからドラフト2位で指名。今度は親が喜ぶと思っていたら「プロに行くよりもトヨタに残った方が生涯賃金がいい。」と止められてしまい、また、野村監督からは「メガネの捕手は大成しない。」とボヤかれてしまった。しかし、これにもめげず、1年目から正捕手の座を掴み取り、2年目には首位打者になる。3年目にはリーグ優勝、その後の活躍は皆が知るところで、05年には2000本安打達成、06年からは監督兼選手となり、07年に引退した。

新監督 古田敦也 新たなる挑戦 [DVD]

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・「野村監督から教わったことは?」
「野球は考えるスポーツだ。人には動機があるし、人の考えには偏った傾向がある。だから、そこを探れ! データを重視しろ! 幸いにも野球選手は勉強をしないんだ・・・」
「TVでは『人の関心のあること』『人のためになること』『おもしろいこと』だけを話せ。困ったら、俺の悪口を言え! 大丈夫、俺はお前の悪口ばかりを言っているから・・・」

・「球団削減のピンチに、選手会代表としてどう立ち向かったのか?」
「1球団減らすことを認めると、最悪8球団まで減り続け、プロ野球の人気がなくなってしまう。球団はサービスや地方展開など、何も手を打っておらず、ほとんど1人の某球団のオーナーの意見ありきになっている。話し合いもないし、到底納得できるものでなかった。当時は、試合が終わってからマスコミを避けるために弁護士と西麻布のカラオケ屋で勉強していた。」

・「配球で後悔したことは?」
「配給にはパターンがあり、相手の弱みも多少なりとも分かっている。しかし、松井などの一流の打者は学習してくる。今回はもうダメかなと思いつつもまだ大丈夫だろうという配球をして、それで打たれると大変ショックだった。これだと思った配球ならば打たれたら悔いはない。」

古田選手はありのままを正直に話してくれました。

古田選手の生き方を私が僭越ながら一言でまとめると「人生は必ずしも自分の思い通りにはならない。でも、その状況の中でも自分がコントロールできることがある。後悔しないように、しっかりと自分の頭で考えて、腹を決め、そして、最善を尽くすのだ。」といった感じです。柔らかい話が多い古田選手でしたが、球団削減の話なると、とても真剣になっていました。古田選手がいなければプロ野球の今の盛り上がりは無かったでしょう。

古田選手はブロガーとしても有名です。一時は「真鍋かをり」と同じくらい人気がありました。

古田のブログ

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北京五輪のコメントが今から楽しみです。また、監督については、オファーがあればいつでも検討するとのことでした。